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「愛着障害」回避型

『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(岡田尊司 光文社新書)という本がある。
古今東西の有名人を例に出しながら、人間の愛着スタイルや、そのスタイルになった背景を説明してゆく、という内容だ。
著者が精神科医であるだけになかなか説得力がある部分が多いし、夏目漱石やミヒャエル・エンデ、ウィニコットなど私の好きな作家や興味のある人物など、他にもたくさんの人々が取り上げられていて、読み物として面白い。
その本の中から、印象に残ったり、自分に関係がありそうだと思う部分を引用してみる。

『2. 回避型愛着スタイル
【回避型の特性と対人関係】
親密さよりも距離を求める
回避型の愛着スタイル(以下、回避型)の人は、距離をおいた対人関係を好む。親しい関係や情緒的な共有を心地よいとは感じず、むしろ重荷に感じやすい。だから、親密さを回避しようとし、心理的にも物理的にも、距離をおこうとする。
回避型のコア・ウィッシュは、縛られないことである。人に依存もしなければ、人から依存されることもなく、自立自存の状態を最良とみなす。そして、他人に迷惑をかけないことが大事だと、自己責任を重視する。
自分の属する集団とも、気持ちを共有することは少なく、仲間に対して、一緒にいてもあまり意味がないとか、時間の無駄であるといった、ネガティブな見方をする傾向がある。積極的に関与するとこよりも、自分に余計な責任がかからないようにする。
回避型のもう一つの大きな特徴は、葛藤を避けようとすることである。そのため、人とぶつかり合ったりする状況が苦手で、そうした状況に陥るくらいなら、自分から身を引くことで事態の収拾を図ろうとする。人への積極的な関与を好まないのも、ある意味、葛藤を避けようとするためである。
その一方で、葛藤を抱えられないことは、正反対の一面を生む。ストレスが加えられると短絡的に反応し、攻撃的な言動に出てしまいやすいのだ。相手の痛みに無頓着なところもあるので、自分が相手を傷つけていることに気づかなかったりする。冷静そうに見えて、切れると爆発してしまうのである。』

私が自分でボーダーの特色を持っていると思いながら、それでも何か違うと感じるのは、この「回避型」の特色もかなり持っているからだと思う。
親密さが嫌いな訳ではないし、できれば求めたいけれども、それが母との関係の後遺症で「苦痛とセットになっている」「所詮本物ではない」「対価が必要」などという感覚と強烈に結びついてしまっているので、求める前から警戒したり疲れたりしてしまう。
「縛られる」という感覚も、極端なほど苦手だ。
もっとも、この感覚、縛られることへの嫌悪感は、一緒に暮らすなど、よほど距離が近くなければ表れて来ない。友人なら、それが親友でもそんな風に感じたことはない。
(知り合ったばかりでずんずん距離を詰めて来ようとする人は苦手だが、それはまた違う話だと思う。その場合は、話が合うとか気が合って距離が縮まるのではなく、相手の要求が矢継ぎ早に一方的に突きつけられたりするのがしんどいということだ。私にはそれを受け流す器量がない。)
適度な距離感さえあれば、情緒的共有は大事だと思う。
ただ、相手と不可分に一体化「させられる」ことに強く反発する気持ちはある。
私が、他の誰でもない私でいる、ということを阻害され続けて来たため、この感覚はまるで埋め込まれた、何かの刺激で爆発してしまう爆弾のようになっている。
「責任」という言葉には、怯んでしまいやすい。
自分が負うべきものと、そうしなくてもいいものの整理がまだついていない、と思う。
母の娘でいる、ということに「責任」の意味を混ぜて押し付けられて来たせいもある。
でもこれは、ただの事実だと少しずつ思えるようにもなった。「血が繋がっているから一体化しなければならない」という怨念じみた感覚は、母の勝手な思い込みだった。
私は単純に、そして残念なことに、あの人から生まれてしまった。ある意味では「それだけのこと」だ。

葛藤は、確かに避けている。
私は友人とは、小学校や中学校の頃を除いて、喧嘩したことがない。
喧嘩するのは母と、多分母を投影してしまうパートナーだけだ。
友人に対しては、そもそも爆発してしまうような苛立ちを感じることがなかったし、多少腹が立っても抑えたり飲み込んだりしていた。
もし爆発した様子を一度でも見せてしまったら「終わり」だとも感じていた。


by Reimei34 | 2018-09-03 11:00 | 愛着障害

鬱、ひきこもり、毒になる母などについての 言葉にするのが難しい痛みの記録。


by Reimei34