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怒りをもって戦う人ーー「私には生きる権利がある」

『怒りをもって戦う人ーー「私には生きる権利がある」

人はなぜ怒りの妥当性を否定するのでしょうか。
怒りを出せば拒絶されると教えられれば、子どもは当然怒りを抑えようとするでしょう。子どもは愛を必要とするので、それを確保するためにある程度の犠牲を払います。親は自分の子どもが怒りを表現するとそれを押さえつけ、自分に向けられる場合には絶対に我慢しないことを私たちは知っています。しかし別の説明もできると思います。子どもが幼児期に愛と滋養をひどく奪われた場合、どれほどの怒りを感じ、怒りを喚起できるでしょう。無力な幼児期に子どもができるのは泣くことだけではないでしょうか。叫ぶこともできます。
私の息子に関するある出来事が思い出されます。息子が五ヶ月の頃、急用ができて妻と私は彼を友人に預けることになりました。息子の欲求すべてを手当てして、ようやく友人の家を出たとき、息子は満足しているように見えました。ところが数分後、私たちが住んでいたアパートから二ブロックほどの場所で、大きな叫び声を聞きました。私たちにはそれが息子フレッドのものだとすぐにわかったので、家に戻りました。彼は大きな声で叫びました。
しかし、叫んでも反応がなければ、子どもの叫び声はどんどん弱まっていくでしょう。生きる欲望が徐々に死の願望へと変容します。子どもは生きる意志を活性化させるかもしれません。未発達の自我にできるのはせいぜいそんなところです。怒りを感じ、それを表現するか抑制するかを決める力は幼児にはありません。そのためには、より高度の筋肉調整が必要になります。
クライアントはみな、自分が苦しんだ虐待や拒絶に対して怒りを感じ、それを表現する力が必要だと私は確信しています。

メアリーの場合は、私には天の助けがありました。
ある日セラピーにくると、暴漢に襲われてお金を奪われたと言いました。彼女は何も考えずに反撃しました。ところが、この出来事と自分が取った行動を話しながら、彼女は暴漢に対して怒りを感じいませんでした。彼らの行動を説明して、その行為を正当化しようとしていたのです。しかし私は、わずかですが怒りを私に向けさせることに成功し、ある意味彼女が自分自身を去勢させてしまったことを理解させました。少し怒りを体験すると気分がよくなりました。彼女の苦痛が軽減したからです。

クライアントの問題はみな複雑で、単純な答えはありません。しかし私たちは答えを求めているわけではないのです。私たちが求めているのは理解することです。生き延びる意志を使い、長生きするかもしれませんが、そこには命の充実、満足がないことがわかってきました。満足するにはリスクをとる必要があります。生きる意志は成長、あるいはリスクをとるうえで障害になる可能性があります。
しかし、生きる意志を手放したとき、自分を守るものはなんでしょうか。自分の生存をどのように保障していけばよいのでしょうか。私の答えは戦う人(fighter)になることです。戦う人は自分の命を賭けます。それを失うこともありますが、生存者(survivor)もまた命を失う姿を私は見てきました。戦う人には、自分の存在がもつ可能性を実現するチャンスがあります。
戦う人は喧嘩を売る人ではありません。自分には存在する権利、愛する権利、実現し満足する権利があることを知っている人です。自分の権利が否定されれば戦います。バイオエナジェティックスの用語を使えば、戦う人は、自分の生きる、そして愛する願望を支え、実現するために、攻撃性を使う用意のある人だと定義できるでしょう。
(一九八二年)』

(『からだは嘘をつかない うつ・不安・失感情、〈からだ〉からのアプローチ』アレクサンダー・ローエン 国永史子 訳 春秋社 2008年 より引用)

正直、この引用箇所のすべてを理解し、納得しているとは言えない。
ただ何となく、自分にとって大事なことが書かれているように思う。

この国では、特に女性は、それが正当なものであってさえ、怒りを表現することはタブーとされて来たし、今もまだその風潮は強い。
さらには、「目上」の人間への「反抗」や「抵抗」も、白眼視されがちだ。
だがそういう抑圧が、子どもへの虐待や毒親問題、家庭内ハラスメント、職場でのハラスメント等々を影で支え、助長して来たのも事実だ。
しわ寄せは、いつも一番弱い所へ集中してしまう。
そしてその構図こそが、人から生きる意欲を奪ったり、病気にしたり、さもなければチェーンレターさながらに更にその人にもっと弱い相手を探させ、見当違いのその相手に倍返しどころか数十倍、数百倍返しをさせてしまう。
それを、何ら、悪いこととは思いもせずに。

私の母の毒要素は色々あったが、一番腹が立つのはこの「自覚のなさ」だった。
例えて言えば、私を蹴り倒し、踏みにじりながら、笑顔で、当然のような顔をし、時として感謝まで要求したり、そんな酷いことをしていながら、私と常に一心同体だとか、私が彼女の味方であるとか、勝手に思い込んでいたのだ。

「血が繋がっている」

という魔法の言葉一つで、何もかも許され、浄化され、感動が沸き起こり、永遠に仲良く幸せに暮らせる、とでも言うように。

冗談ではない。馬鹿も休み休み言え、だ。

頼んでもいないのに、親には到底向かない精神状態の人間の娘に生まれてしまったこと。
そして、その後の長い長い苦痛。
これを勝手な都合と言い分で、一方的に簡単に覆されてたまるか、と思う。
血の繋がりは、免罪符ではない。
そこにあたたかい交流があって初めて、それは価値ある繋がりになる。

今だって私は、自分が「存在したい」と心から願っているか、わからない。
母がしたことのうちで、何が最も酷いかと言えば、私に「大して生きる価値がない、何故なら私が私ではいられないから」という刻印を、焼きごてで焼きつけたように刻み付けたことだろう。

親子に限らず、パートナーや友人(のようなカオをした捕食者)でも、他人の境界線を侵犯し、考え方や感じ方まで操作し、人格そのものを乗っ取ろうとする人間は、一定数存在する。
戦うとすれば、こういう人達と戦わなければならないのだろう。
打ち負かすのは無理でも、何が起こっているのか知り、そこから遠ざかり、他の人に助けを求めたり、起きたことを告げたりすることが、充分戦いになるのだと思う。

by Reimei34 | 2018-10-18 19:39 | 毒母

鬱、ひきこもり、毒になる母などについての 言葉にするのが難しい痛みの記録。


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