自分を縛る鎖
2018年 10月 29日
愛読させて頂いている毒親関連のブログや、そのコメント欄から、今日もまた、ほわっとした気持ちを頂いた。
その方々の自省や表現の能力は、本当に素晴らしい。
そして、羨ましい。
今日はだいぶ鬱がキツかったのだけど、もうちょいがんばれそう、と思えた。
本当にみなさん、ありがとうございます。
毒親育ちの人間が自由を勝ち取るには、少なくともそれが当たり前になるには、きっとまだまだ時間がかかるだろう。
でも、どんな権利でも、地道に声を上げ続けることで、弱い立場だった人間が勝ち取って来たのだ。
そして、年齢的に子どもである人間はほとんど声を上げられないのだから、大人になった人間が、どんどん自分達の経験を語り、緩やかに分かち合って行くのがきっと、最善なのだろう。
親子間のあり方は、それこそ脈々と「上意下達」「強い方が正義」の方式が受け継がれて来たので、変化には途方もない抵抗があって、むしろ当然だ。
そうではない親がおそらく一定数以上は常にいて、子どもに優しさや、大人になってからの対等な関係を伝授できていたから、少しずつ少しずつ変化は現れ、それが今日に繋がっているのかもしれないが、残念ながらまだまだ足りない。
私はスイスで活躍した心理学者のアリス・ミラーの遺した著作に述べられている考え方に、かなり傾倒している。
子どもはそもそも親がいないと生きられないから、親がどんなにひどい親でも、最初はそれに気づくことができず、適応することで生き延びようとする。
大人になり、何かがおかしかったと気づくようになっても、自分の中に何重にも鎖が巻かれ、鍵までかけられてしまっているので、そう簡単には自由に考えたり動いたりできるようにはならない。
親への「忠誠」心。
いい子にしていれば、今度こそ受け入れて愛してもらえるのではないか、わかってもらえるのではないかという、虚しい期待。
親が描いて見せた「可哀想」な姿への同情。
親の粗暴さや理不尽な感情の爆発、無慈悲な態度への恐怖心。
しかも、それらの鎖は自分だけのものではない。
同じように心理的に縛られ、その状況を変えたくない、とそれぞれの理由で思い込んでいる人々がいて、他の誰かが鎖を外す気配を察すると、全力で邪魔をして来ることもある。
そうなってくれる「かもしれない」理想の親像の幻を守るために。
でも、そんなものは最初からどこにもなかったのだ。
オズの魔法使とか、裸の王様とか、強大で立派に見えた「毒親」の正体など、そんなものだったのだ。
毒ではない親は、子どもの成長に合わせて子どもに行使する「力」を徐々に減らし、成人する頃には子どもの方から何か言って来ない限りは子どものことに手出しや口出しするのは、基本的に控えるようになるだろう。
そういう親は、そのようにすることで、最初から「鎖」など作らない。
だが毒になる親は、本人が意識しているかどうかはともかく、結果的にはこれ以上ない用意周到さで、自分と子どもを何本もの鎖で繋いでしまうし、子ども自身の心の中も窒息寸前になるほど何重もの鎖で縛られる。
その中でも最もタチが悪いのが、「罪悪感」の鎖だ。
それに、親がいないと何もできない、という「無力化」の鎖。
毒でない親なら、子どもが離れている時ほどその心の中で頼れる存在になり、自由に動けるよう励ますことになるのだが。
「本当にいざとなれば頼れるから、何とか自分でがんばってみよう」とか、「お父さんやお母さんなら、こういう時どうするだろう」、と思える心の拠り所でいるのが、親にできる最高の贈り物だろう。
毒ではない親なら、子どもに求められれば随時味方になるだろうけれど、子どもを常時自分の絶対的な味方になどしようとはしない。
それに、本当の自分に向き合い、自分を理解しようと努めているから、子どものことも他者として理解しようする。
何の対話もなしに、子どもを一番わかっているのは自分、などと決めつけはしない。
特に、その子どもが思春期を超えてからは。
わからないことはわからない、だからわかろうとする。
とても単純なことなのに、毒になる親はその手間を省き、何事もわかっていると決めつける。
(理解を超えることは、ないものとして扱う)
また、そこから子どもがはみ出せば、自分が「わかっている」姿の方へ、力ずくで捻じ曲げるのを厭わない。
そして鎖で固定するのだ。
何の疑問も持たずこのやり方を受け入れた子どもが、長じて別の場所で様々なハラスメントを行うこともある。
全部は無理かもしれない。
でも私は、自分を縛っている鎖を外したい。
時間切れになる前に、一本でも多く。
by Reimei34
| 2018-10-29 18:57
| 毒親