人気ブログランキング |

「たぶん受胎したのが間違いだったんでしょう」

『この症例では、ポールにこう言うべきですーー「二つの解決方法があって、二つともよいものではないけれど、君はどちらを選ぶ?」本当に何が問題なのかを理解していないかぎり、解決方法はすべて悪いものばかりなんですから。「君はもうお父さんを必要としていない。仲間を作るために君が盗みをやった日、君は自分が社会で生きてゆくことができて、パパをもう必要としていないことを示してみせたのよ。君はどちらを選ぶ?寄宿舎に入るか、それとも家族のなかにいるか。せめてお父さんがもう君と顔を合わさなければいいんだけどね。だってお父さんは君を間違って養子にしたんだし、君も間違って養子になったんだから。どちらにとっても間違いだったのよ。でもそれで君は生きてゆけるようになった。たぶん受胎したのが間違いだったんでしょう。それでも君がこの世に生きていることには変わりない。生きてゆくほうがいいよ」。
いいですか。患者をその欲望においてとらえることが肝要なのです。それは別に彼の欲望の言いなりになるという意味ではありません。このようにすれば子どもは難局を切り抜けることでしょう。つまり彼が望んでいるものとはまったく違うものを支えにすることで。それでも彼は生き、活動的で、前進していきます。 それがわたしたちの役割なのです。患者が自分の人生を前向きに歩んでいき、より遠くに到達するよう、彼の力動を支えてやることです。それは彼の望みどおりのものをあたえて喜ばせるということではありません。彼の欲望を言葉で正当化し、彼の非難に耐えるということです。そのときから彼は精一杯のことをやるでしょう。しかし後見人に頼っているかぎり、彼の欲望とはけっして一致しない後見人のいうことを、のまざるを得ません。』

(『子どもの無意識』フランソワーズ・ドルト 小川豊昭 山中哲夫 訳 青土社 1994年 より引用

実に何ともドライなことに、この引用箇所でズバズバ、あるいはさばさばと、淡々と事実を提示され、また選択を迫られるほど信頼されるべきと言われているのは、たった11歳の少年である。
だが、フランソワーズ・ドルトが主張しているように、人間が8歳くらいからもう、少なくとも自分の自我に対して責任が持てる、というのは、ある意味でとても心強い考え方だと思う。

このケースの場合は、養子の少年とその養父について症例検討がなされていたのだが、実の親子でも、十分に当てはまると思えた。
自分に当てはめてみて、妙に納得が行く気がする。

母は間違って私を生んだのだし、私も間違って母の娘に生まれた。
どちらにとっても、間違いだった。
でもそれで私は生きてゆけるようになった。
多分、受胎したのが間違いだったのだろう。
それでも私がこの世に生きていることに変わりはない。
生きてゆくほうがいい。

…。
…。

ちょっと、ズキンと、胸が痛んだ。
間違いで、何とまあ、どちらも長いこと苦しまなければならなかったことか。
受胎なんかしてしまったのが間違いだったなら、その痛恨のミスが悔しい。
それに、「生きてゆくほうがいい」と、何のわだかまりもなく言えるかどうかも、正直かなり怪しい。

それでも、その「間違い」を修正しようと、見当違いの方向に虚しい努力を続ける必要はないんだな、と改めて思う。
私はもう、私として存在してしまっているのだし。
それも何だか、悔しいと言えば悔しいけれど。
でも、全体像としての自分を、私は決して嫌いではないのだ。
身体も、感じ方も、考え方も、心それ自体も。

誰にも邪魔されなければ、つまりは他人に誰かと較べられたり、無意味な競争を強いられたりすることがなければ、あるいは他者に奴隷的に所有物扱いされることがなければ、普通に育つような素直な感覚で、自分で自分のことを好きなのだ。
思うように動く身体、それぞれに必要な知覚、好奇心を持った、ユーモアも解する心。感受性、感情。自分なりの好き嫌い。

始まりが間違いの結果、もしくは偶然の結果だったとしても、これだけ備えているのならば、案外たいしたものだったのではないか、という気がしてくる…。


by Reimei34 | 2018-11-01 18:52 | メモ

鬱、ひきこもり、毒になる母などについての 言葉にするのが難しい痛みの記録。


by Reimei34